2040年をどう生きるか

はじめに
気付けば2025年は終わろうとしており、もう3週間と少しで2026年という時期になった。
日常生活の中で西暦を意識する機会が少なく、感覚はまだ2024年である。
2025年は5の倍数で、少しキリの良い年だ。5年後には2030年という現実は、にわかには信じがたい。
では、現在から15年後の2040年、私たちの日常生活はどのようなものになっているのだろうか。
私たちの現代の「普通」は、2040年にも「普通」なのだろうか。
ベーシックインカムの実現
私は2040年のベーシックインカム(以下 :BI)の実現に期待をしている。
それはなぜか、現代の人間が働くことにリソースを割かれすぎだからである。
人間は、明日の衣食住のために働かざるを得ない。
やりたいことがあっても仕事を優先するし、その仕事が本当に自分のやりたい仕事ではなかったりもする。
BIはそんな人間の生活を大きく変える可能性がある。「生活のために働く」という「普通」を破壊するのが、BIである。
ベーシックインカムとはなにか
ベーシックインカムについて、ご存知だろうか?
年齢・性別・所得・資産に関わらず、すべての国民(または住民)に、生活に必要な最低限の現金を無条件かつ定期的に支給する、政府による普遍的な所得保障制度のこと。生活保護など既存の社会保障制度と異なり「無条件・一律」が特徴で、貧困削減、行政コスト削減、少子化対策などのメリットが期待される一方、莫大な財源確保や労働意欲低下、財政圧迫などの課題も指摘される。
どうやって実現するか
少し難しい内容になるが、BIの実現可能性を考えるうえで鍵となるのが「AI税」である。
生成AIや自律型システムは人間の労働を代替しながら企業の利益率を押し上げるが、その果実が一部の資本だけに集中すれば、失業と格差だけが拡大する。
そこで、AIによって生み出された追加利益に対して、クラウド利用料やアルゴリズム関連の超過利潤を指標に課税し、その税収を全国民への基礎所得として配分する構想が浮上する。
AI税は、労働ではなく「機械が生む富」に応じて負担を求めるため、技術進歩と社会保障を直接結びつけられる点が特徴だ。
ここまで読んで、AIを過信しすぎなのでは?と思っている人も多いだろう。無理もない。だが、そう感じるのは現代のAIのレベルがまだ低いからである。
AGI・ASIの実現
ここから先を考えるうえで鍵になるのが、現在のAIの延長線上ではなく、その先に想定されているAGI・ASIのインパクトである。
いま身近に触れている生成AIは、あくまで「前座」にすぎない。
AGI(汎用人工知能:Artificial General Intelligence)とは、人間のようにあらゆる知的タスクを理解し、学習し、実行できる、人間と同等かそれ以上の汎用的な知能を持つ仮想的なAIのこと。
ASI(人工超知能 : Artificial Superintelligence)とは、人間の知能をはるかに超え、自己学習・自己進化を通じてあらゆる知的タスクで人間を凌駕する、理論上の究極的な人工知能のこと。
研究コミュニティや大手企業の一部では、早ければ2027年頃に人間並みの汎用人工知能(AGI)が実現し得る、という見通しも語られ始めている。
その後、特定分野では人間をはるかに上回る超知能(ASI)段階へと到達する可能性が高い。
このとき重要なのは、AIが「画面の中」にとどまらないという点だ。
AGI/ASIレベルの知能がヒューマノイドロボットに組み込まれれば、事務仕事だけでなく、物流・製造・建設・介護・清掃といった肉体労働の領域にも、本格的な自動化の波が押し寄せる。
つまり、オフィスワーカーとブルーカラーの両方で「人間の仕事」を代替するポテンシャルが一気に高まる。
そのとき社会全体で生まれる超過利潤を、国民みんなで分配する。
どうだろう、こう聞いてみると、少しBIの実現が現実的に見えてくるのではないだろうか。
ベーシックインカムは何をもたらすか
ここまで、BIが「どうやって実現し得るか」を見てきた。
では、それが実際に導入されたとき、私たちの日常や社会はどのように変わるのだろうか。
ここでは、特に
① 余暇の創造的爆発 ② 失敗する自由 ③ ケアの充実
という三つの視点から考えてみたい。
余暇の創造的爆発
古代ギリシャの市民が、政治や哲学、芸術を発展させることができた背景には、「働かなくても生きていける層」が一定数存在し、思索や対話に時間を投じられた、という事情があったと言われる。
BIが実現すれば、ごく一部の特権階級だけでなく、すべての人に「生きるためではない時間」が生まれる。
その余暇は、単なるダラダラ時間だけを意味しない。
ゲーム、スポーツ、音楽、イラスト、同人誌制作、動画配信……。
これまで「そんなことをしても食べていけない」と切り捨てられてきた活動が、生産性やお金の尺度からいったん解放され、純粋な喜びとして再発見される可能性がある。
結果として、ニッチな文化やマイナー競技、インディーゲームや同人文化のような「好きな人だけが支える場」が、今よりはるかに厚みを増すかもしれない。
BIは、経済政策であると同時に、知的・文化的な土壌を肥やす装置でもある。
失敗する自由
現在の社会では、多くの人にとって「失敗=生活の危機」とほぼ同義だ。
起業して失敗したらどうするのか。芸術で食べていけなかったらどうするのか。
その恐怖が、挑戦そのものをためらわせている。
BIがあれば、最低限の生活は給付で担保される。
もちろん豊かな暮らしをするには追加の収入が必要だが、「一度くらい本気でやってみるか」という一歩を踏み出しやすくなる。
会社を辞めて起業してみる
数年間、研究や勉強に専念する
収益化が見えない創作活動を続けてみる
こうした選択が、「人生を賭けた大博打」ではなく、現実的なオプションとして認識されるようになるだろう。
「失敗しても死なない社会」は、長期的にはイノベーションを加速させる。
BIは、個人の人生設計の自由度を高めるだけでなく、社会全体の実験回数を増やす制度でもある。
ケアの充実と人間関係の質の向上
もう一つ見逃せないのが、ケア領域へのインパクトだ。
今の日本では、親の介護や子育て、障害のある家族のサポート、地域活動などに時間を割きたくても、フルタイム労働との両立が難しく、泣く泣く諦めざるを得ないケースが多い。
BIがあれば、収入のための労働時間を意識的に減らし、ケアに時間を回す選択が取りやすくなる。
親の介護のために短時間勤務に切り替える
子どもが小さい数年間は、あえてパートタイムで働く
地域の子ども食堂やNPOの活動にコミットする
こうした生き方が、「キャリアのドロップアウト」ではなく、立派な選択肢の一つとして社会的に認められるかもしれない。
結果として、家族関係や地域コミュニティのつながりが厚くなり、
「お金はあるけれど孤独」という今どきの典型的な不幸から、人々を遠ざける効果も期待できる。
BIは、単に「働かなくてもお金がもらえる制度」ではない。
余暇・挑戦・ケアという、人間らしい営みの三つの領域にまとまった時間を取り戻し、
「何のために生き、何に時間を使うのか」という問いを、私たち一人ひとりに突きつける装置でもある。
未来での価値の再発見
BIによって「生きるための労働」からある程度解放された社会では、
何にお金を払い、何に時間を使うのかという基準そのものが変わっていく。
これまでの社会では、より安く、より速く、より大量に供給できるモノが価値を持っていた。
しかし、AIがほとんどの「モノ=データ」を低コストで量産できるようになると、
希少なのはモノではなく、人間ならではの体験や物語になっていく。
モノからコトへ、機能から物語へ
AIが大量生産する「完璧なモノ」の価値は逓減していく。 人間が関わる「不完全で一回性のある体験」にこそ、付加価値が移る。 その背景には、機能そのものよりも、「誰が・どこで・どんな思いで」作ったのかという物語への共感がある。
体験としての音楽・スポーツ
AIが生成する音楽や映像は、技術的には限りなく完璧に近づくだろう。
だが、目の前で生身のミュージシャンが汗を流し、ミスも含めてその場限りの演奏をするライブ体験は、
アルゴリズムからはどうしても再現しきれない。
同じことはスポーツにも言える。
超高性能ロボットが完璧なプレーを見せるよりも、
人間がプレッシャーやコンディションと闘いながらギリギリを攻める姿に、
私たちはより強く心を動かされる。
「生身の人間と同じ時間・空間を共有する」という体験そのものが、
希少な価値として立ち上がってくる。
人間らしい不完全さと「手作り」の物語
AIが模倣と最適化を極めれば極めるほど、
逆に「人間らしい不完全さ」「感情のゆらぎ」に価値が宿る。
少し歪んだ手書き文字、釉薬ムラのある器、ピッチが完璧ではない歌声。
それらは従来なら「プロとしては未完成」と見なされてきたかもしれない。
しかし、AIが完璧なコピーを無限に作れる世界では、
その不完全さこそが「唯一無二の証拠」になる。
“手作り”という言葉に付加価値を感じるのは、
私たちがモノそのものよりも、
それを作った人の時間や思い出、背景にある物語を買っているからだ。
未来のマーケットでは、「機能」よりも「物語資本」をどれだけ持てるかが、
ブランド価値を左右するようになるかもしれない。
第一次産業とアートの復権
AIとロボットが高度な情報処理と肉体労働の多くを担うようになると、
人間の役割は、必ずしもオフィスや工場に限られない。
自然と向き合う農業・林業・漁業
風景や地域文化を題材にしたアート・工芸
小さなローカルコミュニティでのサービス
といった領域は、
効率性ではなく土地・気候・人間関係に根ざした「その場所ならではの価値」を生み出す。
ここでは、AIはあくまでサポート役に回り、
主役は依然として人間と地域そのものだ。
都市集中の終わりと、田舎暮らしの価値
近代以降、「仕事は都市に集中する」のが当たり前だった。
しかし、AIとリモートワーク、BIが組み合わさると、
「仕事のある場所に縛られる必然性」が弱まっていく。
収入のベースはBIで確保
追加の仕事はオンラインで完結
生活の舞台は、自然豊かで家賃の安い地方や海外
という選択が、特別なライフスタイルではなく、
ごく普通の選択肢として広がる可能性がある。
そのとき「田舎に住むこと」は、
不便さと引き換えに自然・コミュニティ・ゆとりを手に入れる、
一種の“ラグジュアリー”として再定義されるかもしれない。
AIが世界を均質化すればするほど、
人間が持つ身体性、不完全さ、土地性、物語性といった要素が、
逆説的に強い輝きを放ち始める。
未来の価値は、
データとして最適化された「モノ」から、
一度きりの時間と感情が刻み込まれた「コト」へと軸足を移していく――
その転換点に、私たちはすでに立ち始めているのかもしれない。
AI時代に残り続ける仕事は何か
ここまで見てきたように、AIやロボットが高度化すれば、多くの「決まりきった仕事」は確実に置き換えられていく。
しかしだからと言って、すべての仕事がなくなるわけではない。
むしろ、AIでは代替しにくい仕事ほど、相対的な価値が高まっていく。
その特徴を整理するために、ここでは次の三つの軸で考えてみたい。
AIに代替されにくい仕事の3つの軸
予測不能性 - 定型化できない状況への対応・即興的判断が求められる
関係性 - 人と人のあいだに生まれる信頼・感情の共鳴が中核となる
意味創造性 - 価値や美、物語を“創り出す”行為そのものが仕事になっている
AIは「効率性」では圧倒的に勝るものの、
この三つの軸――予測不能性・関係性・意味創造性――では、
少なくとも当面は人間のほうが優位に立つと考えられる。
予測不能性
まず、「予測不能性」が高い仕事である。
救急医療や災害対応
教室での教育、クラス運営
カウンセリングや紛争解決、現場マネジメント
こうした場面では、「こう来たらこう返す」という単純なパターンだけでは対処できない。
患者の容体が急変するかもしれないし、子どもたちの反応は毎回違う。
相手の表情や空気感、その場の政治的・文化的背景まで踏まえて、
一回限りの“総合判断”を即興で下す力が求められる。
AIは膨大な過去データから「よくあるケース」を当てるのは得意だが、
前例のない事態
利害や価値観がぶつかり合う状況
正解が一つに定まらない意思決定
には、まだ決定的に弱い。
だからこそ、現場で責任を持って判断を下す医師、教師、現場指揮官などの役割は、
AIを道具として使いこなしながらも、中心は人間のまま残り続ける可能性が高い。
関係性
二つ目は、「関係性」を土台とする仕事である。
看護・介護・保育
接客、営業、カスタマーサポート
アートやエンタメの分野(ライブ、舞台、配信など)
コミュニティ運営、マネジメント、リーダーシップ
これらの仕事では、「何をしたか」以上に
相手がどう感じたか、どれだけ信頼を預けてくれたかが成果を左右する。
AIチャットボットは便利だが、「この人になら任せてもいい」と思わせる信頼感や、
一緒にいるだけで安心できる感覚を、完全に再現することは難しい。
人間同士の関係には、
一緒に過ごした時間の長さ
共有してきた思い出
相手の弱さや不器用さへの理解
など、データ化しづらい要素が深く関わっている。
AIが効率よく情報提供をしてくれるほど、
「わざわざ人に会う価値」や「推しを応援する楽しさ」は、むしろ際立っていくだろう。
意味創造性
三つ目は、「意味を創り出す」仕事である。
研究・学術(問いを立て、新しい概念を生み出す)
芸術・音楽・文学・映像制作
デザイン、ブランディング、プロダクト企画
物語づくり全般(ゲームシナリオ、広告コピー、コンテンツ制作など)
AIは、既にあるスタイルやデータを組み合わせてコンテンツを生成することは得意だ。
しかし、「そもそも何を面白いと感じるのか」「何がこの時代の痛みなのか」といった、
人間の感情や歴史、社会状況から出てくる“問いそのもの”は、まだ人間が先頭を走っている。
また、「正解」がはっきりしない領域――
どんな世界観のゲームを作るか、どんな都市を設計するか、
どんな物語を次世代に残したいか――は、
技術というより価値観の選択に近い。
ここでは、AIはあくまでアイデア出しや試作のパートナーであり、
最終的な方向性を決めるのは、やはり人間になるだろう。
おわりに
2040年ともなれば、私は36歳になっている。私の持つ未来論をここに書き連ねてきたわけだが、実際の2040年はどのようなものになっているのだろうか。
現在、ゼミの教授に「それって普通ですか?」というお題について考えるよう言われ、常に頭の端にそのお題がある。
iPhoneの初期型が発売されたのは2007年のことで、今から20年近く前ということになる。当時はおもちゃだとバカにされていたが、現代では9割の人間が、スマホがあることが「普通」の生活を送っている。
「普通」は時代によって大きく変化するもので、笑ってしまうような展開も、その時代になってみれば、「普通」になるかもしれない。
新しいものや意見、価値観に出会ったとき、反射的に否定したり冷笑したりするのではなく、「それはどんな可能性をひらくのか」と一度立ち止まって考えてみる。そんなふうに、未来に対して開かれた人間でありたい。

